今回のブログは、本町店解体跡に行われた新潟市の遺構調査に立ち会ったのでその内容をお知らせします。
どうやら新潟市による店舗跡地の遺構調査が行われるらしい。
そう聞いた私は内心この調査がとても楽しみでなりませんでした。
「どんなモノがここには眠っているのだろう。何か出てはくれないだろうか。」
もともと新潟市中心部の歴史や町の変遷に興味があった私は、この調査に夢とロマンを抱いていました。
(遺構が見つかった場合、調査が長期化する為に新店舗の建築が遅れるという事情から表立っては言えなかったが)
当日出社すると既に重機が入って段取り中。
担当の方と挨拶を交わすと「一箇所だけピンポイントで掘ります」とのこと。
新潟市中心部は大河信濃川・阿賀野川の影響で中世から数多くの堆積を繰り返して来たそうで、深い地中で遺構が見つかることも多いそうです。
今回の調査は3m〜ほど掘り下げて中世〜近世の遺構発見を期待するとのことで、せいぜい遡っても江戸末期の遺構を探すのだろうと思っていた私は驚くばかりでした。
信濃川左岸(新潟島側)に湊ができて新潟津となり、「新潟」の地名が出て来たのが確か戦国時代です。そんな昔からこの本町6には何かがあって、その遺構が目前で見つかるかもしれない。期待と緊張が高まります。
ん〜木片やら、人の手が入った形跡のある藁束のようなもの、杭などが見え隠れしています。
「もう少し掘ります」「建屋の基礎の跡が小路沿いに出ることもあるんですよ」
担当の方が熱心にお話してくれます。
調査は順調に進んでいますが、お目当ての遺構や出土品は未だありません。
「まだ出ない。」「もうそろそそろかな。」
「こうなったら初代堀川鮮魚店舗で使っていた長靴でも良い」
そんな気持ちが湧いて来ました。
予定の深さまで掘ったところで、取り出した土砂の調査が始まりました。
木片やら藁?萱?葦?の束、セトモノも散見されます。
蛇足ですが、近世では新潟町は長岡藩領、幕府領と移り変わり、明治元年の開港五港に選ばれ発展して来ました。この本町六番町には江戸末期の古地図に載るお店が現在も営業を続けています。私たち堀川鮮魚店は昭和五年にこの地で創業し、新潟大火で一度全てを焼失し現在に至ります。
そうこうしているうちに数点が出土していました。
こちらです。
右端の破片は内側に炭跡があるので火鉢のようです。左側の木片には墨字が見て取れます。(そういえばお寺さんの土地だったな汗)手に持っているものは比較的新しい仏具。(お寺さんの土地だね汗)奥の器の破片は上部の模様の特徴から江戸末期から明治初期のものだそう。
以上が今回の調査で見つかった出土物でした。残念ながら遺構は見つかりませんでしたが、この土地の歴史や営みに触れることができて幸せなひとときでした。
出土物に関しては市の方で入念に調査して、如何なるものだったのかを報告して下さるそうです。
調査報告を頂いたらまたこのブログでお知らせします。
このブログを読んで、皆さんが街歩きの楽しさに目覚めて頂けたら幸いです。
ありがとうございました。
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